「なんとなく信じる」ことの恐さ

エマ
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 TBSテレビ放送50周年~戦後60年特別企画~『“ヒロシマ”…あの時、原爆投下は止められた…いま、明らかになる悲劇の真実』という3時間編成の番組を見ました。子供でも見られるゴールデンタイムに流したこの心意気。

 原爆投下を中止するチャンスが、日米双方に何度かあった、という主張については……確かに後付論だと言えばそうなのですが、私としても色々と得るものはあったかなぁと。原爆に関わった科学者達は後に投下を阻止すべく多くが反対派に回り、トルーマン大統領も当初は聞く耳を持っていた、と。しかしいつの時代も強硬派は居るわけで、当時の彼らの日本人に対する感覚は所詮「イエロー」でしかない。もちろん原爆が実際に炸裂した後の後遺症なども当時はまだ知る由も無かったとはいえ、理性や机上の感覚で決めるにはあまりに重たすぎる……。

 さらに印象的だったのは、原爆の開発、投下、撮影の三つに携わった科学者と被爆者との対話。かつて間近に炸裂した原爆を撮影し、番組で始めて当時の悲惨さについて記念館で説明を受けた彼ですが、最後まで「謝罪はしない」と言い通しました。
 被災者の方々はやり切れぬ表情を見せていましたが、市民のレベルと国を背負ったレベルでの対話では相互理解に限界が出てくるのはやむを得ない事でもあります。

 「こういう言葉がある。『真珠湾を忘れるな』」
 「銃弾で死のうが、爆弾で死のうが、原爆で死のうが、死ぬ事に変わりは無い。恐ろしい事だ」
 「私も真珠湾で友を失った。私も貴方も、今生きているだけでも幸せだ」

 もちろん、言葉に欺瞞が無いわけではない。相手と違い、後遺症を実際に味わった訳ではない。しかし、完全な欺瞞でもなく、本音でもあったのでしょう。原爆で殺すのが罪で、通常戦力で殺すのが罪でないという事にもならない、それも確かです。ただ、それは核の威力を知識として知り尽くしているがために、逆に麻痺してしまった感覚なのでもなかろうか……。
 今でもアメリカに住む多くの人たちは原爆の正当性と真珠湾攻撃の被害者スタンスを信じています。当然、これは本当に正しいかどうかではなく、自分達の過去の意義を賭けた戦いでもありますから、ある種生存のための防御本能に近い。

 私はどちらかと言えばこの番組のように「原爆投下必要なかった派」ですが、何れの判断するにせよ、その判断の前にこういった過去の情報は我々日本人、知る機会を持つべきだと思います(「べき」って言葉あんま使いたくないんですが)。

 少なくとも、自発的に調べずに「それも仕方なかったんじゃないかな」となんとなく容認しないこと。原爆の件に限らず、多くの人がそのようななげやりなスタンスに陥る事は、長期的に見ればとても危険な事なんじゃないかなぁと思います。

コメント(1)

この話で一番歯がゆいのは精神的な思想で客観的にいえないこと。
それをいうと個人の主観だけといわれるばかりか、
映画「大霊界」な話になるから。
つまり、どの思想的な話はどんなに良くても
どこかの団体に繋がってるな推理されて
話の意図が通じなくなる。
(蛇足だが映画「大霊界」は興業的に大成功している。
理由は時間に余裕ある年配の方が手ごろな値段でみれる作品であったからw)
 事実検証が重視され、人間として後世として
どうなのかが伝わりにくい。これはマスコミの立場が
そうなだからかもしれない。
 
アメリカのネオコンと呼ばれる人たちやそれを支持してる団体や宗教はまず否定しない。
民主主義の正義の限界がここにある。

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このページは、エマが2005年8月 5日 22:03に書いたブログ記事です。

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