陽炎(かげろう)が立ち昇るような暑い墓地は、山中でも見晴らしのいい場所にある。
休日だけに半袖のシャツにスラックスという軽装だが、暑さもさほど気にならない。
火をつけた線香もそろそろ燃え尽きようかというほどの時間、
清水はほとんど身じろぎもせず、墓石に向かってしゃがんでいた。
「どうしたもんかな、瑞穂……」
時折口にする言葉はこれだけで、
出口の見つからない迷路に迷い込んで途方に暮れたような口調が彼の苦悩の深さをあらわしている。
「それが奥方のお名前か」
と、突然背後から声をかけられ、しかしその声の気格のせいか驚きは覚えず、清水はゆっくりと振り向いた。
「あなたは……」
振り向いた先に立っている青衣を着た青年は、その清水の質問にすぐには答えず、
まずは清水の隣りにしゃがんで手を合わせ、しばらく祈りを捧げてから目を開け、答えた。
「お前の守護天使の関係者……人間界風に言えば、少し違うが上司というところか」
「みさきの……」
「ライオンのみさきは悩んでいる。お前のことで」
「…………」
「お前にも苦悩があるのだろうが、お前の苦悩の深さは、そのままみさきのそれになる。それが守護天使と主人の関係というものだ」
責めるではなく、諭すでもない、厚みと深みのあるゴウの言に、清水は自省の想いが心に染みてくるのを感じた。
このとき清水もまた、みさきと同じくゴウの存在を当たり前のように受け入れている。
守護天使の主人となった人は、ごく自然に超常的な存在を受け入れる素地をその心に蘇らせるのだ。
「申し訳ありません……」
「よかったら話してみんか、おれに」
墓石の前に並んでしゃがみ、前を向いたまま話すゴウと清水。
ゴウはみさきのときと同じように、強いて話させようとはしない。
だがそばにいる者は、ゴウに感じる広さから、安心して口を開くことができる。
「……ここに眠る人のほかに、好きな人ができたのです」
みさきの予想は的中し、しかし少しはずれていた。それをゴウは正確に修正する。
「相手はみさきだな」
「はい……」
二人の会話はごく自然な流れのまま、何事もなかったように重要な場所を通り過ぎ、続く。
「みさきは……ぼくの養女です。そのつもりでこの三年、一緒に生活してきました。いつかは彼女がいい相手を自分で見つけ、あるいはぼくが見つけてきて、幸せに添い遂げさせてあげたいと、本当に思っていたのですが……いつの間にか……」
「そうか……」
その清水の想いもまた自然な流れであり、ゴウにとっては非難の対象にすらならない。
「みさきはずっと、とてもよくしてくれています。もし彼女がやってきてくれなかったら、ぼくは妻を亡くした衝撃から一生立ち直れなかったかもしれない……ぼくはそれくらい妻を愛していました」
「…………」
ゴウは口を閉ざした。もううながさなくても、彼は話す。
「去るもの日々に疎しとは言います。ぼくもただの人間である以上、そういう風に心ができているのでしょう。ですがみさきが来てくれなかったら廃人になっていたであろうぼくが、そこから救われた途端妻のことをなかったようにして、恩人であるみさきを手にしてしまうことが許されるでしょうか。みさきが手に入れるであろう他の幸福を踏みにじって」
時折吹く風は、涼しさより温さを二人の頬に与え、木々の梢をかすかに揺らす。
「守護天使にとってはぼくら主人のもとで生き、死んでゆくのがもっとも幸福なのかもしれません。ではみさきの恩に報いるにはそうするのが一番いいかもしれない。ですがそれは、ぼくにとってもあまりにも幸福すぎるんです。妻はこの墓の下で一人さびしく過ごしているのに、ぼくは妻とみさき、二人の女性の幸福を独り占めにして生き切る。許されることなのでしょうか」
ゴウに話しているのか、それとも他の誰かに訴えているのか、あるいは自分自身に語りかけているのか、清水の語り口は熱さを増す。
「ぼくの心はもう固まっています。ですがそれを許し、それに殉じることが、どうしてもできないのです。みさきにいらない不安を与えていることはわかっているのですが、どうしても前に進めないのです……」
強い日差しが墓石を灼き、桶の中の水はすでにぬるくなっている。
その暑さ以外のものに熱くなっていた清水の心は、口を閉じることによってやや温度を下げた。
「……許しが欲しいか? みさきと一緒になりたいという」
清水が口を閉ざしてから少しして、ゴウが尋ねる。
「……そう…ですね…… でも……その許しをくれる相手とは、もう話はできませんから…」
ゴウの問いに清水は答え、また口を閉ざし、眼前の墓石を悲しげに見る。
「ならば、もし奥方から許しがもらえたら、しっかりとみさきを受け止めるか?」
「……ええ。それができるのならその場ででも。でも……」
「わかった、では許しを請うといい」
清水の言葉を遮るようにゴウはゆっくり立ち上がると、後ろを振り向きつつ空を見上げる。
それを見た清水が、少しいぶかしげにゴウのあとを追って立ち上がった途端、周囲から陽光の明るさだけを残して暑熱が引いた。
「え………?」
夏の明るさの中に初秋のような涼やかさが吹く不思議な空間に清水は戸惑いの声を漏らし、
次の瞬間、空からゆっくりと舞い降りてくるものに声を失った。
清水の表現力では「ひらひらとした」「聖なる」「天使のような」としか言えないような薄い若草色の衣裳をまとった人物。
だがその衣裳より、だんだんと近づいてくるがまだはっきりと見えないその人物——女性の顔が清水の声を奪い、
それが返ってきたのは、清水から少し離れた小道に彼女が降り立ったときだった。
「瑞……穂………」
やわらかな長い髪と女性としては高い背と細い肢体、
そして澄むように整ったその顔は、まぎれもなく清水の亡妻、瑞穂だった。
「瑞穂……瑞穂なんだな……?」
偽者、幽霊。そんな考えが頭をよぎったが、理屈を越えて彼女が本物であることを直感した清水は、
よろめくように一歩を踏み出し、そのままだんだんと足を速め、死んだはずの妻に走り寄る。
「瑞穂……瑞穂!」
喜色を顔に浮き上がらせながら迫ってくる清水に、
女性——瑞穂は片手をゆっくりとあげ——それを握り込んで拳骨を作ると、いきなり伸び上がって彼の頭を「がこん!」と殴りつけた。
思わず足を踏ん張り身体をかがめて頭を押さえる清水。
「————ってええぇっ! なにすんだ瑞穂!」
「うるさい! まったくいい年した男がウジウジウジウジと。上から見てて情けなくなったわよ、あたしは!」
殴られた頭に手をやったまま立ち上がって憤然とする清水に、
瑞穂は両手を腰にあてて自分より長身の夫を下から怒鳴りつける。
そんな瑞穂を清水はしばらくにらみつけながら見下ろし……大きく息を吐くと、殴られた場所を掌で撫でながら苦笑した。
「どうやら本物の瑞穂らしいな、全然変わってない」
「そうよ、幽霊だけど本物の、あんたの奥さん清水瑞穂よ」
清水の苦笑にあわせて、こちらも表情をゆるめると、幽霊にしては精気にあふれた笑顔を瑞穂は見せた。