盛夏の祝福

妻を亡くして二ヶ月。
仕事から帰って来た清水秋人(あきひと)は、妻と二人で住んでいた自宅リビングのソファにぐったりと身を沈めていた。
容姿にさほど特徴があるわけではないが、どこかゆったりとした雰囲気を持つこの青年は、
外見に似合わず、親から任された会社をとどこおることなく維持し、発展させてゆく力を持っている。
彼の持ち物である大き目の二階建てのこの家は、彼の立場にしては小さく、年齢にしては大きい。
中肉中背のその体は、しかしいまは憔悴していてやや細く見え、頬がこけた顔には無精髭が目立つ。

「……ふうっ………………」

中学生のころから同級生で、二十歳のときに籍を入れた妻に死なれてからも、
彼の仕事を精力的にこなす姿は変わらない。
だがそれは以前とは違って妻の死をまぎらわせるためのものであり、
それだけに帰宅すると、妻がいたころと比べて明らかに増したように感じる家の広さに押しつぶされそうになってしまうのだ。
そんな彼を心配する親兄弟は、実家に帰るか新しい家を探すよう、
再三勧めてくるが、清水にはそれこそできない相談だった。

「おれの家は、ここだ……」

ソファの背に頭をもたれかけさせ、天井に向けた目に右腕を乗せる清水の口からは、家族の勧めを思い出すたびにこの言葉がもれる。
さらに、さすがにまだ早すぎるが、三十になったばかりの清水に、
家族たちが再婚を勧めてくることもあるかもしれない。
それは非情さや無神経さからではなく、
このまま心を沈ませてゆく彼を救いたいというやさしさから来るものだと清水にもわかるし、
このままでは自分はだめになり、それはきっと亡き妻も喜ばないだろうということもよくわかっている。
しかしそのときもまた自分はこう答えるだろうということも、清水にはわかっていた。     

「おれのかみさんはあいつだけだ」と。

 

 

帰宅してどのくらい経っただろうか。
スーツを脱いでネクタイをゆるめただけの姿でソファにもたれつづけた清水は、部屋の暗さにようやく気づいた。
心痛から日々重さが増してゆくような体をのっそりと起こし、清水は電気をつけ、そして立ち尽くした。
リビングテーブルをはさんだところに置いてあるソファに、
十代半ばとおぼしい一人の美しい少女が、いつのまにか座っていたのだ。

「あ…………」

清水は無言だったが、これはとっさに言葉が出てこないためである。
しかし少女の方は跳ねるように立ち上がると、緊張に赤くなった顔で、いきなりしゃべりはじめた。

「え、えっと……その、なんだかお疲れみたいでしたから声をおかけしたら悪いかと思って……そ、それと、その、えっと、黙って入ってきたのはごめんなさい。でもその、えっと……」

懸命に自分は怪しい者ではなく、悪気があるわけでもないと伝えようとしている少女を見て、
どうやら夢や幻覚を見ているわけではないと理解した清水は、ふっと表情をなごませて少女に対した。

「どこから来たの?」

その自分の声の穏やかさに清水は驚いた。こんな声は妻の死後、出せたことがない。
さらにもしここに鏡があったなら、かすかに生気が戻ってきている自分の顔を見て、彼はそのことにも驚いただろう。

「え、えっと、その、わたし………あっちから……」

と、少女はおずおずと指を上に向ける。

「二階?」
「い、いえ、そうじゃなくて……もっと上……天上にある、めいどの世界から……」
「めいどの世界……?」

なにがなんだかわからない、という顔をする清水に、少女は必死に語りかける。

「あ、あの、ご主人さま、憶えてらっしゃいませんか? 昔、インドでメスのライオンを助けたこと」
「助けた……? ああ、そういえば子供のころ祖父さんに連れられてインド旅行をしたときに、ライオンの足に刺さっていた棘を抜いたことがあったような……」

「ご主人さま」と、聞き慣れない呼び方をされたことにも気づかず、
思い出し思い出し口にする清水に、少女の顔がパッと明るくなる。

「そう、それです! そのときのインドライオンがわたしなんです!」
「…………え?」
「そのときのインドライオンが死んじゃって、それで天上界にあるめいどの世界に行って、守護天使として甦って、それで今日、ご主人さまのところへ還ってきたんです! ずっとずっとそばにいて、この身に代えてもご主人さまをお守りするために!」
「…………」

いつもの清水だったら、というより、いまの清水でも、こんなたわ言を他の誰かが言ったら苦笑するだけだろう。
しかし清水は、この少女が嘘を言ってはいないと、理屈や常識を突き抜けて素直に感じることができた。
これこそが主人と守護天使を結ぶ絆であり、
どんなに疑い深い頑固な人物が「ご主人さま」になったとしても彼女たちを受け入れることができる最大の理由なのだ。

「そ、それでその、守護天使っていうのは、ご主人さまと深いかかわりがあった動物が死んじゃって、でももっとご主人さまをお守りするために人の姿になって生き返った存在で、それでそれで……」

まだ必死に自分のことを説明している少女を見ながら、清水の心にはじわじわと彼女の想いが染み込んでくる。
それが心のもっとも深い場所へたどりついたとき、清水は少女をやさしくさえぎり、二ヶ月ぶりの笑顔で尋ねた。

「……名前は?」
「え?」
「きみの名前はなんていうのかな。これから一緒にいるのに、名前がわからないと困るだろう?」
「あ………」

その笑顔と言葉に触れた少女は、受け入れてもらえた喜びに、明るい瞳をうるませながら答えた。

「みさき、ライオンのみさきです! よろしくお願いします、ご主人さま!」

「そのときからわたし、ご主人さまのお世話をさせていただくようになりました。それだけでもすごくうれしいのに、ご主人さま、わたしを養女扱いにしてくださって、ご自分の姓もくださって、ご家族にも紹介してくださって、学校にも通わせてくださって……」

遠くを見つめる瞳に、無限の感謝と、主人の愛情を受ける幸福を乗せ、みさきは語る。

「そこまでしてくれたか。お前の主人は本当にお前を大切にしているのだな」
「はい、それはもう!」

一時的にでも憂いを完全に忘れたみさきの明るい笑顔を見て、ゴウもほほえむ。


P.E.T.S & Shippo Index - オリジナルキャラ創作