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第3話「麗しの巨匠」

ちゅん、ちゅん、ちゅん……

すずめのさえずりが、今が朝であることをことさらに強調しているようにも思える。
今日も私は早起きをして、庭にある自分でこしらえた塀の側の台の上に登り、母の化粧台から拝借した小さな腕時計とにらめっこをしていた。
地面から1メートルほど高いこの台の上からならば、うちの庭と家に面する道路とを隔てている、塀のてっぺんより自分の視線を高くすることができるのだ。

塀のてっぺんに自分のあごをのせて、目線の横に走る道路を眺める。今のところ通行人の気配はない。
腕時計を見ると6時24分。こんなに早起きをする5歳の少女もそうはいないだろう。
道路の右向こう側に目を向けて、私はここ最近早起きをする原因である人物が現れるのを待っていた。いや、正確にはその人が毎朝一緒に連れてくる犬を待っているのだ。

ウォン!ウォン!ウォン!
来た。心待ちにしていた犬の威勢の良い鳴き声が私の胸を心躍らせる。そしてぱたっぱたっという犬とその主人が駆けてくる音。その音はどんどん近くなり、そしてついに私の視界に犬と主人が現れた。

「おい!ロック!今日はもう引き返すぞ!……っだから引き返すって言ってんだろ!もうすぐ朝練が始まる……っておい聞いてんのかよ!」

ロックと呼ばれた大きな犬は、同様にとても大柄な主人の制止を振り切ろうと大地を蹴る勢いをさらに強めていく。しかしその大きな男の人はぐいっと首輪を引っ張ると、大地を蹴って宙に浮かんでいたロックをそのまま自分のもとへとたぐり寄せた。

「グヒィン!」

思いきり首を引っ張られ、ロックはどこから出たのかわからないようなうめき声をあげた。

「へえ、ロックっていうんだぁ。そのワンちゃん」
「え?」

思わず、私は声をかけていた。

「ん?ん?」

その男の人はまるでカマキリのようにぶんぶん頭を振って声の主を捜している。

「誰?どこ?」

にぶい。ロックの方が先に私に気付いて塀の側へ近寄ってきた。

「ここだよ。塀の上」

大ヒントをあげた。というか、ほぼ正解である。これでも分からなかったらどうしようと、さらに私は次の手を考え始めていた。

「ああ、そこか。小さなお嬢ちゃんの……首が浮かんでる」

ようやく私を発見した男の人は、今度は冗談を言った。
塀にあごをのせていて、外から見れば確かに私の首しか見えない。しかし5歳の私がその冗談を理解するのには数秒の時間を要した。

「お兄ちゃんって、いつも朝この道走ってるねぇ」

跳ね上がった金髪。
レスラーのようなたくましい筋肉。
そして赤いスポーツウェアに身を包んでいる。
スポーツマンを絵に描いたようなお兄ちゃんは側にいるロックの頭をポンっとたたいて言った。

「ああ、こいつの散歩コースなんだ。するとお嬢ちゃん、毎朝そこで俺のこと見てたのかい?」
「違うよ。お兄ちゃんじゃなくて、そのワンちゃんを見てたんだよ」

子供というのは実に素直なのだ。するとお兄ちゃんは別に気を悪くする風でもなく、

「はっは、そうかい。で、ならなんで道路に出てきて見ないんだ?」

彼もまた素直な疑問を私に投げかける。

「だって、近くだと恐いんだもん」
「恐い?」
「うん、でもここからだったら大丈夫だから」

いくら大きな犬だからって塀を突き破ってはこないだろう。見るのは好きだが、近くは恐い。ロックに対する私のスタンスは微妙なものだった。

「へえ、そんなもんかね。まあこいつ、確かにデカイからな。吠えるし」
「噛み付くの?」
「いや、そんなことはしないぜ。そこらへんはしっかりしつけてあっから」
「じゃあ…ちょっとだけ近くで見てもいい?」

彼の一言で安心した私は、勇気を出していった。しかし言ったあとで再び脳裏に不安が過る。5歳の女の子のにとっては、犬の側へ近寄るにもバンジージャンプをするくらいの覚悟がいるのだ。

「いいぜ。ほら、出てきなよ。好きなだけ見せてやるぜ」

そんな不安も、お兄ちゃんの一声で吹き飛ばされた。大喜びした私はすぐさま台から降りて、庭から玄関へ走り、玄関からロックのいる道路へ。その十数秒がどんなにもどかしく、そして興奮していたことか。
だがその胸踊る躍動も一瞬にして恐怖に変った。

「ウォン!ウォン!ワォーン!」

私の胸くらいまでの大きさのあるロックが、私が道路に出たとたん、お兄ちゃんの制止を振り切って猛突進してきたからだ。
私は恐怖で体が凍り付き、さっきの決断を後悔した。だがいくら心の中で懺悔しようともロックの勢いは止まらず、ついに勢いよく私に衝突した。
勢いに負け、私はロックに押し倒される。ロックの激しい息遣いが聞こえた。このまま首を食いちぎるつもりだろうか。あまりの恐怖に、私は泣く余裕すらなかった。

「くぅらあ!ロック!それはやめろっていつも言ってるだろうがあ!」

お兄ちゃんが怒鳴りながら駆け寄ってきた。

「お嬢ちゃん大丈夫か?ごめんな。悪気はねえんだよ、こいつ。ただ気に入ったやつを見るとすぐ飛びついてってな。つまりお嬢ちゃん、こいつに気に入られたってことだぜ」

ロックは噛み付く代わりに、私の顔をペロペロとなめ始める。私はロックに押し倒されたまま呆然とされるがままになっていた。恐いのやら、くすぐったいのやら、いろいろな思考が光の速さで頭の中を駆け巡り、感情をどう表現すればいいのか分からなくなった私は、とりあえず泣き出すほかなかった。

「ぅぐ、ひっく……ふぇぇぇん」
「おいおい、泣くなよ嬢ちゃん。ロック!おめえのせいだぞ!お嬢ちゃんに謝罪しろ」

謝罪のつもりなのだろうか。ロックはなおも私の顔をなめ続けている。ロックの舌はとても熱く、ざらざらしていた。顔がだ液ですっかりべとべとになる。くすぐったくて、私は今度は泣きながら笑いはじめた。

「ぅぐ……ふふ……ふぇ……ヒック……アハハハ……」

人間は複数の感情を同時に感じる時があるということを、私は早くも知った。

「ははは、忙しい嬢ちゃんだな」


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