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第6話「動き出す悪夢」

長い長い廊下……。足下にはどこまでも続く赤い絨毯。上を見ればシャンデリアに黄色く照らされた、高い高い天井。もう5分は歩いた気がする。

「お兄ちゃんの部屋って、遠いねぇ」

二人で何時間も、工作室で粘土をこねこね。気が付いたらすっかり日が暮れてしまった。昨日できなかった分を引いたってお釣りが来るだろう。数時間に及ぶ練習のおかげで、苦手だった粘土工作にも少し自信が持ててきた。これもひとえに、隣で懇切丁寧に教えてくれた『先生』のおかげだ。

「ねぇ? 真純お姉ちゃん」
「……え?」

私が呼びかけると、それまで下を向いていた彼女は、一瞬驚いた顔を見せた。

「美月、うまくなったでしょ」
「う、うん……そうだね……」

今日の真純お姉ちゃんはやけに大人しい。粘土の扱い方を教える時も何処か元気が無かったし、自分で粘土を使って何かを作ろうともしなかった。私がようやく扱いに慣れて大はしゃぎする頃には、お姉ちゃんは工作室の窓から、外の景色を惚けたようにずっと眺めていたのだ。

「ねぇ。本当にあれ、美月が作っていいの?」
「あ……うん……」
「もちろん、美月が渡していいんでしょ?」
「……うん」
「やったぁ! でももったいないね。お姉ちゃんが作った方が上手にできるのに」

そもそも言い出しっぺはお姉ちゃんの方だ。昨日お兄ちゃんの部屋を出た後、私たちがこっそり話し合って決めた、二人だけの秘密。どちらが主導権を持つかで散々モメたというのに、お姉ちゃんのこの冷め方は一体なんだろう。

「上手とか、そんなのより……あんたの方が、作りたいんでしょ?」
「え?」

お姉ちゃんの言った言葉の意味が、すぐには分からなかった。
「それにね。あんたが作って、あんたが渡した方が、ずっと喜ばれると思う」
そう言ったきり、お姉ちゃんは黙りこくってしまった。

 

 

「なんだお前たち。飽きもせずに、よく来るな」

言葉の割には、ユーイチお兄ちゃんは私たちの顔を見て喜んだようだった。

「へへ、お兄ちゃんの部屋ってとっても落ち着くんだもん。ね、お姉ちゃん」
「う、うん……」

相変わらず大人しい真純お姉ちゃんを先導して、部屋の中へと入ってゆく。お兄ちゃんの部屋はいつも薄暗い。常に最小限の照明しか付けていないらしく、机やベッド、ソファーといった家具も実際以上に年季が入ったように見える。
私に気づいたのか、ソファーの後ろからシャム猫のティコが顔を出してきた。

「あ、見つけたよ。ティコ」

いつものようにティコを抱え上げてソファーに座る。お姉ちゃんも私の隣に座ってティコに小声で挨拶した。普段の彼女なら見つけた途端、挨拶も抜きに彼をいじくり回して遊ぶだろうに、今日のお姉ちゃんはどうも『らしく』ない。
お兄ちゃんを見ると、彼は何か分厚い本を持っていた。それまで読み物をしていたのだろうか。目の前の机では、スタンドライトの薄茶色をした光が、積み上げられた数冊の洋書を照らしている。どれも漆黒のハードカバーに覆われた、いかにも古臭そうな本ばかりだ。

「本、読んでたの?」
「ん? ああ、いや、もう終わったよ」

なんでもないというそぶりをして、彼は手に持っていた洋書を本棚にしまおうとした。気になって本のタイトルに注目すると、それは英語で書かれていた。

<E.......?il......s...pi...rit.......s...tu...d?......>

幾つか分からない文字がある。アルファベットを完全に覚えていなかった事を私は後悔した。

「さっき来たのか?」
「ううん。ずっと前に来てたよ。お姉ちゃんと一緒に粘土の勉強してたの!」
「ああ、あの工作室に居たのか。少しは上手くなったか?」

しばらくの間、ティコを抱えてソファーに座る私と、お兄ちゃんの会話が続いた。しかしやはりここでも、お姉ちゃんは全く話題に加わろうとはしなかった。落ち着かない様子で、始終壁時計の針を気にしている。
ユーイチお兄ちゃんもようやく彼女の異変に気づいて、お姉ちゃんに向き直った。

「どうした? いつもの元気がないじゃないか」

急に視線を向けられたお姉ちゃんは、ユーイチお兄ちゃんと目を合わせた途端、ばっと下に俯いてしまった。

「あの……あたし……その、なんていうか……」

彼女がここまでしどろもどろになったのは初めてだ。以前の元気の良さは一体何処へ行ってしまったのだろう。彼女は両手でジーンズの裾をぎゅっと掴むと、お兄ちゃんを見上げて上目遣いになった。

「あの、お兄さま。お兄さまのお父さんって、どんな人ですか?」

それまでの話と全く脈絡のない唐突な質問をされて、ユーイチお兄ちゃんはしばらく呆気にとられていた。場違いな質問をした事は自覚しているのだろう。お姉ちゃんは怯えたような目つきで、お兄ちゃんの反応を待っている。

「私の父さんか? とても良い人だよ」

別に気にする風でもなく、お兄ちゃんは穏やかな顔をして言った。

「どんな……風に?」
「優しい人だ。この家を、ここで働く人達を、そして私を、本当に愛してくれている」

なおも続けるお姉ちゃんの質問にも、お兄ちゃんは全く嫌な顔をせず、むしろ自分から話しがっているようだった。でも、それを聞くたびに真純お姉ちゃんは辛そうな顔をする。……何故?
昨日は分かりそうでついに分からなかった事が、今なら分かる気がした。私と、お姉ちゃんは、きっと似たもの同士なのだ。
お兄ちゃんはそんな私たちの心理とは別のところで、一体何を想っていたのか。それまで嬉しそうだった彼の顔が、再びいつもの無表情に戻ってしまった。

「そしてとても……可哀想な人だ……」


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